ブログライターkomichiのプロフィール

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ブログライターkomichiのプロフィール

1971年7月3日、広島県生まれ、幼少時代は、自然豊かな小さな島で育ちました。

当時は、両親は島で商店と魚屋を営んでいて、家族に囲まれ、育っていましたが、なにか周囲の子どもたちと自分が違うという違和感を強く感じていました。その頃は、現在のように、「発達障害」だといった認識が一般的ではなかったため、とても生きにくいなと感じているのですが、それを言語化出来ずいたある日、母親が学校に呼び出されてしまいました。

小学校4年生のときの出来事ですが、担任の年配の女性の先生に、「あなたの娘さんは、高校にはいけません」といわれるほど、学力&学校での素行に問題が目立ったようです。

小学校5年生の時に、両親が離婚、島を離れ、家族はバラバラになり、広島市のほうへ移り住みました。

両親が一緒にいたころは、そこそこ豊かな暮らしをしていて、周囲の子どもたちが家から持ってくるお弁当に比べると、何故うちはこんなに豪華なのかな?と不思議に思っていたのですが子供だったので、自分の家が豊かであったという事実を知りませんでした。

両親が離婚したあと、再婚した母についていったのですが、今度は、真逆の生活が待っていて、貧乏のどん底を味わうはめに陥りました。

母が再婚したのは、小学校5年生の後半です!再婚相手にいじめられ、貧乏体験をしながら、周囲の子どもと違う自分の性質に悩み、誰にも相談できず、生活に追われる母に、泣き言もいえない状態の中で、中学に入ると、学校でいじめを受けるようになりました。

家では再婚相手に、学校では同級生にいじめられながらも、なぜか学校を休んだことはなく、入学した時にはテニス部に入部したのですが、そこでもなぜかいじめられ、半年で辞め、友達から誘われて、美術部に入り直し、学校生活を充実させていきました。

小学校のときに、担任に言われた、「高校に行けません」という言葉は、実現せず、その後高校に進学し、部活には入らず、バイトと学校の往復をしながら、読書ばかりをして過ごしていました。

高校を卒業するときに、学校で就職を斡旋してくれるのですが、どうしても地元にいたくなかったので、関東への就職を希望したのですが、就職担当の先生に理解されず、結局仕事先が決まらないまま、卒業をすることになりました。

どうしても、関東地方に移り住みたい、家は貧乏ですから、自分でなんとかしなければならないと思い、ある秘策を思いつきました!就職雑誌の関東版を、わざわざ取り寄せて、寮付きで、関東で働けるところを探しはじめて3ヶ月後、ようやく念願の仕事が決まり、広島を離れることが出来るようになりました。

しかも、自分が思っている以上の、意外と花型な仕事でした!その時の気持ちを言葉にすれば、仕事の内容が良かったことや、仕事自体が決まったことに対する喜びよりも、やっと家から離れられるという、なんともいえない開放感でした。

母の呪縛から逃れられると、そのとき強く感じました。

就職先は、あるショッピングセンターで、仕事内容は、受付案内、店内巡回などの接客で、人前に出て行く仕事が楽しくて、充実した日々を送っていました。

私にとって、この仕事場は、働きながら学ぶ大学のような場所で、同年代の人たちと共に、様々な経験をしながら、楽しい時間&苦しく辛い経験もしながら、充実した日々を送っていました。

そんな日常が続くと思われた、3年後、ある日、朝の6時に、一本の電話がかかってきました。

母からの電話で、「ガンになったから、戻ってきて欲しい」という、懇願の電話でした。

人生これからという22歳の初夏の出来事でした。

とりあえず、就職先に休職届けを出し、一旦広島へ戻ったのですが、やせ細った母を見て、これは、大変なことが起こっていると実感し、結局仕事先を辞め、治療する母の側に付き添いをしながら、当時まだ、小学校4年生だった弟の面倒と、家事を担当することになったのです。

まだ動ける状態だった母が、当時、地元で飲み屋を経営していた家族に頼み、飲食関係の仕事を紹介してもらい、昼間は母や弟の世話、夜は夜中まで働くという生活が始まりました。

夏に仕事を辞め、家族の紹介で、ある飲食店で働き、母の看病をしていたのですが、まだ44歳の若さだったこともあり、転移が早く、余命数ヶ月だと医師に診断されたとおりに、4ヶ月弱で亡くなってしまいました。

いろいろとあり、その後東京に戻り、友人の紹介で、ショットバーでバイトをしながら、人生をどうしたものかと考えあぐねつつ、日々を過ごしていました。

その後、現在の夫と知り合い、なぜか1年後には結婚、やっと落ち着いた生活が出来ると思っていた矢先に、どんどん体調不良が続き、大学病院などで細かく体を調べてもらったのですが、悪い所はみつからず、このまま家にいるだけでは仕方がないので、体調不良であったのですが、時代は丁度ウィンドウズ95で沸き立っていたので、パソコンスクールに通い、ブラインドタッチを習得したところで、パニック障害の発作がひどくなり、あえなくその先は断念!残ったのは、ブラインドタッチが出来る体だけとなりました。

結婚して1年で、うつ病、パニック障害、摂食障害などの症状がどんどん出てきて、それでも、社会と関わる道を断つのが怖くて、コンビニのバイトをなんとかこなしていたのですが、とうとうそれすらできなくなり、引きこもるようになりました。

まだ25歳の私が、人生このままで終われないと強く思い、パソコンに向かって、文章を書き綴る日々を送るようになりました。

当時はまだ、ブログなどは存在しておらず、日記サイトなどで、文章を書き続けながら、エッセイや小説などを書いてみたりしつつ、自分でサイトを作り、そこに、結婚についてや、日常生活の中で、多くの人が気づいていないのに、苦しんでいることの本質について、気づいていたことなどを、エッセイにまとめながら、自分でサイトではなく、描き下ろしで書いていた小説を出版社に送り、共同出版という形で、4冊出版しましたが、一社は倒産し、結果500万円ほど使ったのですが、結果は出ることがありませんでした。

うつ病などの症状は、その後自分で運動をしたり、食事療法をしたり、数多くの本を読んで認知の歪みを整えていくうちに、どんどん良くなっていきました。

そんな私が、ブログライターという職業に出会ったのは、ブログコンサルを受けたことがきっかけでした。

母の生き方、死を見て、強烈に感じた、「母親を幸せにするためには、どうしたらよかったんだろう?」という、腹の底からこみ上げる衝動が、発症後、結婚(している)する前の女性の意識改革が必要ではないかという、深い気付きとなり、ブログライターとして情報発信をしていきながら、女性の応援が出来ないかと考え、現在このような活動をしています。

現在は、夫と猫との、穏やかな暮らしを楽しんでいます。趣味は、筋トレ、ジョキング、記事作りです。

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